演劇ブックレビュー 第4回

鈴木忠志・中村雄二郎『劇的言語』朝日文庫、1999年(増補版)


 本書は、演劇における言葉と身体の関係を考えるのに最適の本です。著者(といっても本書は対談集なので、対談者)の鈴木氏は劇団SCOTを主催する演出家で、本書執筆時は早稲田小劇場を率いておられました。役者の育成法である「鈴木メソッド」で有名ですね。もう一人の対談者、中村氏は著名な哲学者で、特に演劇にも造詣の深いことで知られています(註1)。「鈴木メソッド」うんぬんは別にして、本書は演劇に携わる人々にとって、表現における言語と身体の重要性についてのさまざまな示唆を与えてくれます。
 第1章(主章I)では、「身体空間」として、演劇を取り巻く「空間」との関係について語られています。近代化によって大ホールができ、照明・音響設備の機械の発達により、演劇の商業化は支えられてきましたが、それは「非動物的エネルギーの増大」(鈴木氏:以下S)であるとして、それにより「人間が持っている基本的な感覚が衰弱している」(S)としています。確かに「ここは照明で何とかしよう」とか、「ここはばーんと音楽が欲しいな」などと、特に使わなくてもいいのに、安易に効果に頼ってしまう経験はみなさんはありませんか。それに対して「言葉が言葉として十分に機能するためには…身体的な基盤がなければならない」(中村氏:以下N)という主張は、より内面からの表現をする上で有用ですね。

 そして、一般にいわれる「舞台は嘘の世界」であり、役者はその上で「変身」するという考え方にも、彼らは異を唱えます。「舞台というのは明らかに現実空間」(S)であり、「舞台で行われることは『変身』ではなくて『顕身』」(S)であるとしています。つまり、日常で偶発的に行われること(例:笑ったり、怒ったり)を、意識して舞台上で行うことで、演技に対する感覚・感情が顕在化してくることで、それは単純に舞台の上で別の人物に「変身」するということではないとしています。演じる側としては「変身」していると考えることはある意味照れ隠しのようになり、その方が楽ですが、それはともすれば、演技に没入しすぎてしまうということにつながるような気がします。

 ではそのような演技を生み出すもととなるものは何かという問いには、歌舞伎と近代劇を比較して、「型」が必要だとしています。歌舞伎では基本的な動作のやり方というのは決まっていて、それを会得した上で、作品に取り組むわけですが、役者は全員がそれを会得し、内面化しているために、取り組みやすいというわけで、近代劇はそれを内面化する機会がないから苦労するとしています。しかし、みなさんの周りで経験を積んだ役者は、役にこなれていくのが早いという経験はありませんか。それはやはり、役を自分の中に消化する「型」のようなものを持っているからだと思うのです。それが無意識であっても、「とりあえずこうやってみよう」というようなやり方を持っているかどうかが、そのスタートの速さを決めるのでは、と考えます。歌舞伎はそれがどの役者にも備わっていて(というか稽古で会得して)、それをみんなが認識しているということがここでいわれる「型」という意味でしょう。しかしわれわれ中小の劇団がその知見を生かすとすれば、そのことと、役作りという「共同の場」をなるべくみんなで共有することで、お互いの役の作り方を理解し合うということが導けるのではな いでしょうか(註2)。

 1.5章(間の章I)では、ギリシャ悲劇におけるコロス(役者の周りの舞踊隊)とヒーロー(役者)における関係を、お互いが存在証明を与えているという視点から論じています。
 第2章(主章II)では、「体内言語」として、言語と身体の関係性について論じています。この章は著名な哲学者の名前がどさどさ出てきて、ともすれば挫折しそうになります。西洋と日本を比較して、キリスト教文化の中で肉体を汚れたものとして精神へ傾斜する傾向があるのに対し、日本では身体(躯:「肉体」ではなく)と精神が分離していないという傾向があるといわれるが、日本人はそれを特殊なものと思いこみすぎたとし(N)、両者は「肉体を放棄して精神に集中するか、そうじゃなくて肉体の内側に集中するかという違い」(N)ということです。ここでの主張は「われわれが芝居に共感するのは、知的に理解するのではなくて、舞台の呼吸に同調する」(N)というところに集約されています。演劇はよいストーリーを役者がうまく演じ、その主張に観客は感動するというのが一般的な考え方ですが、それは「知的に理解」することですね。そういう面も確かにあると思いますが、「よくわからないけど感動した」という経験は、お芝居をみてよくあることですね。英語が分からなくても本場のブロードウェイをみて感動したということも聞きます。それは役者の呼吸($B%j%:%`)に観客がひきつけられるとい うことで起こると考えると、その役者は台詞を自分の内側に集約し、それを呼吸として観客に伝えることができているということができるかもしれません。われわれがそのレベルにまで達するにはかなりの努力が必要でしょうが、よく台本を読み込むこと、そして何度も何度も発声してリズムを作り出すことが、あたりまえのことですが、結局重要なのかもしれませんね。

 2.5章(間の章II)では、早稲田小劇場が富山のかやぶき屋根の民家で行った実験公演の様子が描かれています。空間と表現を一体化する試みといえるでしょう。「合掌造りの建物で芝居をするということをアンチテーゼとして立てることによって、他方で鉄筋コンクリートの建物の中ではどういう芝居づくりをしたらいいかという意識が出てくるといいんだけど」(N)という主張はうなづけます。
 そして第3章(主章III)は「劇的構造」として、演劇という芸術の性質について語られています。演劇の「集団性ということが、思った以上に豊かなものを持っていた」(S)という主張は興味深いものです。演劇はたとえ一人芝居でも一人ではできません。その集団性は「単なる部分の集積に止まらなくて、そこから一つの飛躍した全体の顔かたちみたいなものが出てくる」(S)として、演劇の分業制の弱さを指摘しています。大劇団のまねをして、役者は役者、スタッフはスタッフと完全に分けてしまっている劇団がありますが、2つの意味で「もったいない」ですね。1つはここで述べられているように、全体としての意味、あるいはおもしろさ、より多くの人の意見を採り入れることで2+2=5というような相乗効果を生み出すことができるということです。そしてもう1つは、「あんなおもしろいことを人任せにするなんて」ということですね。
 そして「演劇創造を持続していく場合の現代の最大の課題は、そういうジャーナリズムや観客の志向に対して、どれだけ共同性の重しを維持していくか、どれだけ個人に還元されないものを作っていくか」(S)ということであるとしています。「俳優個人が技術的にうまくなればなるほど、創造性が加わらなければ空しくなる」(N)ということは、思い当たる人もいるのではないでしょうか。「あそこの劇団はあの役者はうまいんだけど…」「あのお芝居は話はいいんだけどね」というのはよく聞く話ですが、それはここでいう「共同性の重し」が足りないんだということができるでしょう。うまい役者がいるのは重要です。問題はそれと周りとのバランスということで、それを「周りが足を引っ張ってる」というのは簡単ですが、何も生まれませんね。「俺の戯曲をうまく演じてくれない」という悩みも同様です。われわれにとって重要なのは、劇団内でどんどん意見を出し合ってお互いを高めあうこと、それによって全員がおもしろいと思う舞台を作ることでしょう。そのような環境づくりができる人がいるかどうか、やってるかどうかで、お芝居の出来は大きくちがってくるような気がします。「個人が伸 びていくためにも集団は不可欠なんですね」(N)という言葉は、みんなが胸にとどめておくべきでしょう。
 本書は言語と身体、そして演劇の関係性についての議論を通じて、さまざまな示唆をわれわれに与えてくれます。その議論はかなり難解ですが、見方を変えればわれわれがすぐに実践できるようなポイントを見つけだせるでしょう。その意味でも、このような本がもっと出版されることを望みます。


註1:中村氏はほかにも演劇をテーマ、あるいはモチーフにした本を書いておられます。「魔女ランダ考」はおすすめです。
註2:このレビューの解釈は、あくまで中小の劇団に実践的な示唆を導き出すことを目的としていますので、特に本職の方による解釈の違いの指摘はご容赦ください。演劇人の「私はこう思う」というご意見は大歓迎です。

(1999年3月3日)

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Created by Yuichi Matsumoto
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